八田與一(1886年2月21日生 〜 1942年5月8日没)

 石川県河北郡花園村(現在は金沢市今町)で生まれ育った八田與一(よいち)は、明治43年に東京帝国大学工学部土木科を卒業後、台湾総督府に入府した。内務局土木課の技師として台湾のインフラ整備を受け持った。赴任してすぐの頃は、島全体に汚水などが原因になるマラリアなどの伝染病が蔓延しており、與一も上下水道の整備業務に従事した。

 
   

 当時の国予算の約半分を注ぎ込んだとまでいわれる台湾の治水事業の成果は、マラリアなど伝染病の激減で一定の成果を上げることに成功した。與一もその技術力の高さを評価さえ、狩野三郎とともに桃園大シュウ(土辺に川)工事を任される。※大シュウとは、大きな用水路のようなもので、運河のように交通路としても使用された。

 
 この頃、與一は同郷の開業医の娘、外代樹(とよき)と結婚した。
 
 與一は次に難関の嘉南大シュウ工事に携わる。嘉南平野は、水源が乏しく作物が育ちにくい場所であった。しかもその貧しい土地には15万ヘクタールという広大な田畑があり、乏しい水をさらに取り合うという劣悪な状況であった。與一は官田渓という河川を堰き止めて、地下水路を作って嘉南平野に水を供給するというアイデアを考え出した。さらに曽文渓という別の河川に大きなダムを建設し水源を確保するという壮大な計画を打ち出した。これが有名な烏山頭ダムである。
 
 しかし、これらの総工費を試算すると、当時の金で5,400万円もかかるということが判明した。現在の金額に換算して約1兆800億円にも上るとてつもない予算であるが、この建設案は「半額を日本国が、半額を受益者で設立する組合が折半」することを条件に国会を通過した。
 
 與一は官職を辞めて受益者による組合「官田渓シュウ組合」に入った。嘉南の農民らと同じ立場となって建設事業に携ったのである。
 
 およそ10年をかけて同事業完成した。貯水率の高い與一が設計したこの利水事業では、嘉南平野一帯に水路を張り巡らしても余りあるほどの貯水が実現し、その後飢饉は起こらなくなったという。
 
 嘉南平野の人々は、與一を「八田先生」と呼び親しんだといわれている。
 
 台湾総督府から呼び戻され、勅任官(高等官職)に抜擢され、台湾全土のインフラ整備の責任者となるが、第二次世界大戦中の昭和17年5月、帝国陸軍の要請によりフィリピンの灌漑調査に向かう途中、乗船していた輸送船が米国潜水艦に攻撃され、56歳の生涯を閉じた。
 
 1973年に新しく完成した曽文渓ダムに主業務は移行しているが、與一が作った烏山頭ダムは、現在でも何の問題もなく機能しているという。ちなみに曽文渓ダムも與一の基本設計で作られたものである。
 
 
 
Copyright Tokushimaken Japan-Taiwan Friendship Association 最終更新日 2014.09.24